吾峰会のあゆみ

(1)明治の同窓会活動

現在、会員26,000人を擁する吾峰会は、明治21年1月、46人の同窓生で結成した『福島同窓會』が始まりである。『福島同窓會』の規則によると「同窓蛍雪ノ好ヲ維持シ兼テ教育上ノ神益ヲ図ル」ことを目的として結成されたもので、会員は旧福島、若松、磐前師範学校及び福島県尋常師範学校の卒業生に限られていた。

そして『福島同窓會報告書』(各支部の活動報告)を発行した。その後、報告書は、『福島同窓會報告』、『福嶋同窓會報告』と名が変わったが、24回からは報告から会報となって、『福嶋同窓會報』となる。『福嶋同窓會報』は、昭和12年まで続いた。

県内の支部(当時は部会といった)は明治21年から22年にかけて設置され、活動が展開されていった。その発展ぶりには驚くべきものがある。当時の報告書を見ると、信夫部会、伊達部会、安達部会、安積部会、田村部会、岩瀬・石川部会、西白河部会、双葉部会、菊田磐前・磐城部会、行方宇田部会などの名を見ることができる。

県外支部が、いつごろ設置されたかはっきりしないが、東京部会が最初である。明治22年ごろと思われる。ついで宮城部会が設置された(明治36年)。

東京支部の活動は素晴らしく『福嶋同窓會報』を東京で印刷、発行するなど本部の活動を積極的に支援している。東京で印刷、発行された会報は43回から47回、49回、50回(明治38年8月から42年7月まで)で、4年間も続けられた。

福島師範に女子部が設置されたのは明治21年5月で、24年3月には第1回の卒業生が出ているが、当時の総集会の記録には、「当分入会セシメザルコト」「師範学校女子卒業生ノ入会ハ当分見合スルコト」などとあり、福島同窓会に入会できたのは明治28年の事である。明治時代の男女の交際や会合などの風潮を知ることが出来る。

(2)大正期の主な活動

大正2年は母校の創立40周年に当たるとともに、同窓会の創立25周年でもあることから、記念式典や懇親会、会報記念号の発行など様々な記念行事が行われている。また同窓会は、会の活動とともに母校の後援活動を展開してきた。

母校創立40周年記念の際は、図書購入資金の寄付を募り、多くの図書を寄贈している。

また大正13年には、母校創立50周年を記念して同窓会から2,000円を母校に寄付した。

大正12年、福島師範学校が男子と女子に分離し、福島師範学校と福島女子師範学校として開校する。これに伴い同窓会も分離した。

(3)昭和の主な活動

分離はしたもののいろいろな問題が生じ、解決までに多くの時間を費やした。

女子部同窓会の分離を可決したのは、昭和5年6月の同窓会総集会でのことであった。女子部では、女子師範学校同窓会創立発会式を行い『女子師範同窓會報』を発行することとなった。同窓会報第1号が発行されたのは、昭和5年12月のことである。

昭和12年12月、明治22年から発行されてきた『福嶋同窓會報』は、第83回を最後に発行中止となった。発行中止の理由は、会報に明記されていないので、はっきりしないが、昭和6年からの満州事変、昭和12年からの日中戦争によって印刷用紙も不足しはじめ、更に資金が不足し、経費を節約するために発行を中止せざるを得なかったのではないかと考える。

昭和18年4月師範学校令が改正され、官立福島師範校となり男子師範と女子師範が合併する。それに伴い、男師と女師の同窓会も合併し、『福島師範同窓會』が発足した。第二次世界大戦中は苦しい耐乏生活が続き、同窓会の活動は制約され、支部町会などの会合の開催も難しくなっていった。

昭和24年福島大学が発足し、福島師範と福島青年師範が合併し学芸学部となったことから両同窓会の合併が決まり、『福島同窓會』とすることに決定した。初代会長に棚木義次氏を選出し、同窓会報「あぶくま」第1号(昭和25年11月23日発行)を発行した。

『福島同窓會』という名称は、ぱっとしないし抽象的だという理由から、26年度の総会で同窓会の名称変更の議が上程されて、満場一致で可決した。「あぶくま」4号(昭和27年10月10日発行)で、同窓会の新名称を募集する。30数点の応募の中から審査委員会で「吾峰会」を選定し、総会で決定をみた。それにより『福島同窓會』は『吾峰会』と改称した。募集に応募し当選した「吾峰会」の名付け親は、学芸学部長栗村虎雄先生であった。会報の名も「あぶくま」から「吾峰」と改称され、吾峰第5号(昭和28年1月10日発行)として刊行された。

福島大学学芸学部同窓吾峰会が誕生し、昭和30年には、母校のピアノ購入資金寄付募集をし、ピアノ3台を寄付している。

また昭和31年7月26日には、福島女子師範学校生徒吾妻山遭難30周忌法要を吾峰会と当時のクラス会とが共催で、福島市清明町真浄院において執り行っている。(女子師範学校生徒吾妻山遭難とは、大正15年9月17日、福島女子師範学校の生徒2年生と4年生150名が4人の教師引率のもと、高湯口から吾妻山に登山中、嵐のため遭難し、2年生2名、案内人、写真師の計4名が死亡した事故である)

総会(昭和8年までは、総集会)は昭和32年までは福島市での開催が多かった。そこで33年度から会員の意識の高揚と組織の充実を図るために、地方での総会開催を実施することとなり、県内巡回制をとることになった。昭和33年度は郡山市、以後白河市、会津若松市、浪江町、須賀川市、いわき市、二本松市、原町市で開催された。

昭和36年、母校福島大学開学10周年記念事業として、体育館兼講堂の建設寄付金を募集する。寄付金は目標額の150万円をはるかに突破して250万円となり、体育館兼講堂建設に貢献した。会発足から続いている、同窓会の母校への後援活動の一環である。

昭和41年4月、福島大学学芸学部が福島大学教育学部と名称を変更。

吾峰会も福島大学教育学部同窓吾峰会と呼称を変更する。

福島大学教育学部は、昭和49年、創立100周年を迎えた。吾峰会は学部の記念事業の「福島大学教育学部百年史」の編纂や財政援助に全面的に協力した。

会員の研究助成と奨励については、昭和24年施行の福島同窓会会則にあげられていたが、具体的施策は実施されていなかった。55年度から会員の研究助成を行うことになり、研究奨励金交付要領を発表し、交付希望者を募った。交付候補者の選考は教育学部長があたり、その選考に基づき、吾峰会会長が決定し交付金を交付している。この制度は現在も続いており、平成19年度までに30名の個人と18団体に奨励金が交付されている。

福島大学が金谷川キャンパスに統合移転したのは、昭和54年である。

母校の跡地が分からなくなったら困るということになり、昭和58年度の事業として募金により跡地に記念碑を建設することになった。約600万円の募金による資金で、杉妻町、浜田町、入江町に記念碑を建設した。場所は下記の通り。

・杉妻町(福島県庁地内)旧福島県師範学校(共通)と福島女子師範学校の跡地

・浜田町(附属学校地内)旧福島県師範学校(男子部)旧福島師範学校(男子部)旧福島大学学芸学部、旧福島大学学芸学部の跡地

・入江町(福島市音楽堂地内)旧福島県立青年学校教員養成所 旧青年師範学校の跡地、記念碑は昭和56年から59年にかけて建設された。

昭和59年、以前から話題になっていた会則を改定することになる。

改正の趣旨は、現職会員のほとんどが大学卒で、学部の卒業生の1/3が県外在住者であること、事務量が増大し、事務を附属小・中学校の副校長だけに任せていては運営が困難であること、円滑な運営を図るための財源を確保する等であった。

新会則は、役員、役員の選出、役員の任務にわけ明確化された。評議員会で選出する会長、副会長、監事、会長が評議員会の承認を得で委嘱する若千名の常任理事、理事、監事が会を運営することとなった。また事務局を設置し、常任理事の中から事務局長、部長をあて、専任の事務長を置き、会の運営や事務等に改善を図った。

円滑な事務と経理が執行できるよう、会則や規程を抜本的に改正し、整備し、現在に至っている。

吾峰会は、昭和63年1月4日をもって創立100年を迎えるので、62年度内に100周年記念事業を実施することになった。会長より記念事業の企画委員、実行委員が委嘱され、委員会が構成された。組織をとおした協議と実行により、円滑に進められた。主な事業は記念大会(記念祝賀式、記念講演、祝賀会)、記念出版(会員名簿、記念誌「吾峰会100年のあゆみ」等である。「吾峰会100年のあゆみ」は11,000部印刷し全会員に無償で配付した。

記念大会は昭和62年11月10日、福島市のグリーンパレスで盛大に行われた。

(4)平成の主な活動

平成5年、従来の勤務校又は住所と氏名という会員名簿でなく、会員番号、氏名、郵便番号、住所、電話番号、勤務校という項目を明記した量・質ともに充実した会員名簿を作成した。新しい名簿は総ページ880ページに及ぶものであった。

吾峰会は、平成7年に福島県で開催された「ふくしま国体」に対して、総意を込めて支援活動を行った。会員のいっそうの意識の高揚を図るため、会報の臨時増刊号を刊行し、賛助金30万円を贈呈して、物心両面から支援し協力した。

各方部、各支部の協力によって、県内のローテーション制をとり吾峰会総会(平成4年度からは大会)は年々充実し、盛会をみている。平成23年は東日本大震災のため中止された。再会された平成24年は二本松市、平成25年は双葉支部に代わり白河市で繰り上げ開催された。

平成9年、郡山市での大会は吾峰会創立110周年記念大会であった。8月30日、郡山市のビューホテルアネックスで行われ、内容は記念式典、記念講演、祝賀会である。その他の記念事業として、同窓吾峰会百十年史刊行、会員名簿の刊行、会報「吾峰」特集号の発行がある。なかでも『同窓吾峰会百十年史』は、同窓会の百年史ともいうべき沿革史としてまとめられ、A5判、布張り、上製本、ケース入り、500ページの豪華なものである。 700部印刷され、会員には3,500円で頒布された。

平成11年10月には、110周年記念事業の一つである、会員名簿が刊行された。総ページ990ページで、会員番号・氏名・現住所などの項目は5年度版と同じであるが、会員の要望を入れて見やすいものにし、更に充実した会員名簿が作られた。

平成18年、共生システム理工学類実験棟が完成し、それを期に「共生システム理工学類研究教育後援基金」が始められ、吾峰会員からは、3,785,000円の寄付がよせられた。この年から吾峰会主催の卒業祝賀会を開催し、卒業を祝うとともに入会を歓迎することにした。

吾峰会創立120周年の記念大会が、平成19年の福島大会である。大会を成功させるため記念事業企画委員会が設置された。委員会の答申にもとづき、評議員会で記念事業について審議、決定された。その内容は、記念大会、記念出版(会員名簿、記念誌、会報特集号等)、ホームページの開設である。そして会員名簿発行は平成17年度に、ホームページの開設は18年度に、19年度には記念大会、記念誌刊行、会報特集号発行等の事業が推進されることになった。

吾蜂会創立120周年記念出版の『吾峰会会員名簿』は、平成18年1月に刊行された。項目は11年度版と同様にしたが、今回は個人情報保護法の制約があり、編集には苦労した。住所氏名登録17,578名、多くの会員からの賛助金の協力もあり、3,000部印刷された。

ホームページは平成19年2月13日に開設された。会報が届かない遠くの会員をはじめ、多くの会員が利用するようになってきている。

吾峰会創立120周年記念事業の記念式、記念講演、祝賀会は平成19年10月7日福島市ウェディングエルテイにおいて開催された。式典のあとの記念講演は「福島大学の将来構想」と題して、福島大学長今野順夫氏の話があり好評だった。祝賀会は県内外から400名も参加し、吾峰会の今後の発展を祈念しながら、旧交を温めることが出来た。なお、祝賀会では新しく出来た同窓吾峰会旗が披露されるとともに、100歳の現職先輩も紹介された。また会場には「吾峰会120年文教略史」のパネル展も開催され、参加者を喜ばせた。

平成20年1月の創立記念日には、記念誌『吾峰会120年のあゆみ』が刊行された。発行部数20,000部、カラー印刷の46ページ、素晴らしいものである。また同日、会報『吾峰120号(創立120周年記念特集号)』も発行された。これらの記念誌と会報は、県内外の全会員に無料で配付された。

また、平成20年度に、いくつかの記念事業のほか、大学内にモニュメント「風を聴き雲を越えて」と刻字された乙女像が建立された。

平成21年4月に愛知支部、5月に岩手県支部、7月に北海道支部が誕生し、吾峰会は県内17支部、県外12支部となった。青森県にも結成の動きがある。

平成21年10月1日の大きな喜びは、積年の願いであった吾峰会事務所が福島大学の研修施設内に開所したことである。この施設名は「福島大学街なかブランチ」と言い、旧葵寮跡地の職員会館を改装した建物である。吾峰会では専任の事務員を雇用し、事業の円滑な運営が図られるようになった。

 平成23年(2011年)3月11日午後2時46分頃、東日本大震災が起こり巨大津波が発生した。福島市は震度6弱の地震に襲われ、本震の揺れは約6分間続いた。停電・断水に加え電話が不通となり連絡が満足にとれない状況となった。また、ガソリン不足のため車での移動が困難な状況であった。地震発生当時、吾峰会事務所では黒津忠勝事務長が勤務しており、地震が収まってから退室、帰宅した。
 同日午後3時39分頃、高さ14mを超える津波の第3波が福島第一原子力発電所に到達、直撃し冷却用全電源を喪失した。翌3月12日午後3時36分に水素爆発を起こした。この事故により、双葉支部会員は全員が県内外へと避難を余儀なくされた。(20ミリシーベルトを超えるおそれのある地域は避難区域とされた)
 吾峰会事務所は、書類の散乱や断水の被害があり、何日間かは誰も出勤できない状況であった。その後事務局員総出で片付けを行い、3月30日までには片付けを終了したが、約一ヶ月半にわたり事務は停滞した。国・県や大学の動向が掴めないばかりか会員の状況も掴めず、余震が続く中、総務部会を頻繁に開催し、会の運営や会員の絆を強める方策を探った。本年度吾峰会の活動について理解の上協力していただくため「『東日本大震災および原発事故』に伴う本会の対応について」と題して各支部長・事務局長宛文書を送付した。本文書により評議員会でも再確認すべき内容を通知した。
 同年4月、母校は「うつくしまふくしま未来支援センター」を設置し、東日本大震災と原発事故による被災者・被災地域に寄り添う支援活動を行っている。
 この東日本大震災と原発事故による被害は、本県教育に甚大かつ深刻な影響をもたらした。4月27日には、県教育委員会が小中学校教員の採用中止の方針を示したことから、福島大学人間発達文化学類の働きかけにより、7月19日に吾峰会を含む教育関係団体からなる「大震災後の福島県の教育振興を進める会」が発足した。23年度の主な活動は「震災後の学校状況調査」「福島県の教育振興と学校教員の確保の要望」「教育復興シンポジウムの開催」などである。
 また、本会は会員の被災状況調査と本県の小中学校の教育活動の実態調査(第一回)を実施し、実態把握に努めた。組織強化委員会を中心に6月末現在までに各支部の被害状況を調査した。(調査結果は別紙「各支部の被災状況(6月末現在)」を参照のこと。
 予定より2ヶ月遅れの7月9日、支部代表で構成する評議員会開催に漕ぎ着けた。県外から北海道・愛知支部など7名の評議員が参加し開催され、県大会と研究奨励事業は中止、会員名簿発行準備は中断の措置を採った。県内4支部の持ち回りで開催する吾峰会大会は、予定していた二本松大会を次年度に延期し、再来年度には県南が担当することになった。会員の慶弔、会報配布、ホームページ更新は例年通り実施した。95歳の賀寿該当調査と記念品の贈呈も施行した。
 母校では7月27日に、会員からの浄財と本会からの寄附で建設した「理工学類後援募金祈念棟」の開所式が行われた。祈念棟には寄付者名が刻まれている。
 学位記授与式・卒業祝賀会ができなかった卒業生(新会員)に、同窓会員としての絆を強めるため、卒業生の保護者を通して「卒業生を励ます会」開催の通知や同窓会資料・記念品を送付した。8月13日(土)午後3時より、ウェディングエルティにて「卒業生(平成22年度 第3期生)を励ます会」を開催した。大震災の苦難を共に乗り越えた卒業生152名を始め総勢201名が5ヶ月ぶりに再会した。(開催通知配送はヤマト運輸)
 大震災と原発事故により被害のあった本会は、大きな予定変更を余儀なくされたが、母校及び学生の意欲向上のための応援を継続してきた。
 吾峰会では母校へ震災義援金50万円を寄附し、開学以来最大の危機を乗り越える援助をした。(このほか支部や個人からは1,270,400円)さらに、被害の大きかった相馬、双葉、いわき、仙台、本吉、岩手県支部に各10万円の見舞金を贈った。また、相馬、いわきへは見舞訪問を実施した。さらに双葉支部の負担軽減と会員相互の結びつきを強めるため「双葉支部だより」に県会報「吾峰」を同封し避難先個人宛に送付した。平成26年度版吾峰会会員名簿(平成27年1月4日発刊)には避難前と現在の住所を併記した。

 平成24年(2012年)9月30日までの予定で、第一回目調査に加え、より正確で詳細な被災状況を把握し、本会運営に役立てるとともに後世に残す資料として整備するため、第二回目の再調査を実施した。①人的被害②家屋被害③避難の状況④現職会員の被災状況⑤避難後戻ってきている会員の状況⑥被災地の支援活動をしている支部や会員の状況等の調査項目について再調査を実施した。(結果は「会員の被災状況調査集計表」「吾峰会会員の被災状況調査(再調査)集計結果」「会員の被災状況調査(新規)回答一覧」を参照のこと)

 平成25年(2013年)、母校は「環境放射能研究所」を設置し、放射能汚染による自然環境への影響を調査研究している。
 同年10月13日二本松御苑において、2年ぶりに吾峰会大会が開催された。当初の予定は23年度は安達、24年度は双葉という計画であったが、震災と原発事故のため中止となっていた。2年越しに吾峰会の絆を深め合った。東日本大震災・原発事故のため、平成24年度に発刊予定していた「吾峰会会員名簿」が平成17年刊行から8年を経過して発刊された。平成29年度には同窓吾峰会創立130周年を迎えることもあり、「創立130周年記念版」として名簿を刊行した。

 平成26年(2014年)「OECD東北スクール」東北復興祭に吾峰会から25万円寄附(このほか個人の寄附若干あり)これは岩手・宮城・福島の中高生と教員約100名が2年半にわたる復興教育プログラムの集大成として8月30、31日パリで東北の復興をアピールした。福島大学・OECD(経済協力開発機構)・文部科学省が連携して実施した事業である。

 平成27年(2015年)2月、創立130周年記念版「会員名簿」刊行事業が、名簿発送と残務処理をもって終了した。会員名簿の題字は安濃徳雄氏(福島県書道協会審査会員、若草会郡山支部長、昭34年卒)、表紙は酒井昌之氏(一水会会員、福島県美術協会会長、昭38年卒)

 平成28年(2016年)、組織としての充実を図るため、新支部の結成を呼びかける。このとき支部は福島県内に17支部、県外に宮城5支部、東京、山形、千葉、新潟、愛知、岩手、北海道の12支部があった。平成30年1月には創立130年を迎える。記念事業企画委員会で検討され答申された事業内容「周年を迎えるお祝い」「伝統の継承」「同窓意識の高揚」を基本方針として掲げ、記念事業「記念大会」「記念出版」等を実行委員会が担うこととなった。

 平成29年(2017年)、母校は教職大学院を開設するとともに農学類設置の検討をしている。本会創立130周年記念大会は、9月10日、郡山市ホテルハマツにおいて「記念式典」「130お祝いコンサート」「祝賀会」の三部構成で開催された。スローガンは「支え合い、高め合って130年、きずなを深め輝く母校に」である。本会創設は明治21年1月4日で、昭和24年新制福島大学が開学し、同窓「吾峰会」の名称が決定したのは昭和27年のことである。「130お祝いコンサート」はHOME画面でご鑑賞ください。

 平成30年(2018年)1月4日、吾峰会創立百三十周年を迎えた。記念誌「吾峰会130年のあゆみ」を刊行、会報「吾峰140号 創立百三十周年記念特集号」を発行し、全会員へ送付した。9月29日(土)、会津若松にて同窓吾峰会会津若松大会が開催された。(戊辰150年の節目の年にあたる)本会は平成30年1月4日で創立130周年を迎えた。人間発達文化学類になってからは教員になる数が減少し、公務員や民間企業など幅広い職種の会員からなる組織へ変貌しつつある。

(5)令和の主な活動

◆平成31年・令和元年(2019)

5月1日から元号*が「令和」となる。創立130周年記念事業に因み「百三十文字の思い」コーナーが新設された。また、創立130周年記念大会で収録した学生歌、師範学校校歌、女子師範学校校歌などHPに掲載された。組織強化を図り宮城県旧古川支部が大崎支部と名称を変更し新たな運営をスタートさせた。令和元年10月5日(土)ウェディングエルティにて令和初の同窓吾峰会福島大会が開催された。

◆令和2年(2020)

2020年1月に国内で確認された新型コロナウィルス感染症*により、殆どの事業が中止となる。大学ではインターネットによる遠隔授業が行われた。10月に予定されていた同窓吾峰会いわき大会も中止となった。評議員会や卒業祝賀会等の中止を踏まえ会報編集では『つなぐ・むすぶ・広げる』をスローガンとして「ハガキ一枚分の便り」を広く募集し多くの会員の声を紹介した。8月、「新型コロナウィルス感染拡大防止に関する各支部活動状況の実態調査」を実施。(2020東京オリンピックが次年度開催となる)

◆令和3年(2021):東日本大震災*から10年

会報「吾峰」第146号④頁に昨年8月に実施した「新型コロナウィルス感染拡大防止に関する各支部活動状況の実態調査」結果を掲載し、報告とした。コロナ禍拡大のため5月16日開催予定の評議員会が中止され、評議員会文面議決で行われた。同窓吾峰会須賀川大会も中止となった。(2020東京オリンピック*開催)

◆令和4年(2022)

コロナ禍のため本会諸事業中止。ピーク時(8月19日)一日のコロナウィルス感染者数が福島県で3584人となる。同窓吾峰会会津若松大会も中止となった。令和4年11月30日、福島県教育会館第一会議室にて第2回常任理事・理事会が感染対策を十分に行って実施された。

◆令和5年(2023)

5月14日(日)、福島県教育会館第一会議室にて評議員会が開催された。遠くは北海道、岩手県、新潟、愛知支部からの参加があり、宮城・福島の各支部と合わせて61名の参加者があった。新型コロナウィルス感染症の位置づけが5月8日から「5類感染症*」となった。これに伴い本会行事が通常通りの活動に戻った。

同窓吾峰会は創立135周年を迎え、会報「吾峰」*は第1号から数え第150号目の発行となった。10月14日、二本松御苑において4年ぶりに「同窓吾峰会二本松大会」が開催された。同窓吾峰会ホームページのQRコードが公表された。

◆令和6年(2024)

3月25日、ウェディングエルティにて令和5年度同窓吾峰会主催の卒業祝賀会が5年ぶりに開催された。133名の参加があり、卒業生の新たな船出を応援・祝福した。

令和6年度 評議員会を6年ぶりに福島大学金谷川キャンパス大会議室で開催することができ、27支部の評議員が一堂に会して協議を行った。令和6年8月1日発行会報「吾峰」第153号(※学生歌「今日の世紀に」誕生物語掲載)から全面カラー化となる。同窓吾峰会創立140周年記念版「会員名簿」刊行。

◆令和7年(2025)

1月:同窓吾峰会創立140周年記念版会員名簿送付。

福島県師範学校福島県女子師範学校